マイティラインとは

Part2 美濃の文化遺産を守った女性 加藤た禰

    • 2018年08月29日(水)
    • 偉人伝

町を守る貴重な陶磁器の散逸を防ぐ

夜間照明に石油ランプが用いられ、政府が推し進めた殖産興業政策により、産業が盛んになり生産性を高めるため夜間操業が必要だった明治時代。 1902(明治35)年、加藤乙三郎(かとう・おとさぶろう)が兄とともに、合資会社多治見電燈所を設立。土岐川で発電所の建設工事の最中、春日井の鳥居松から乙三郎のもとにた禰(ね)は嫁ぎました。村人は「水(水力)から火(電気)ができる訳がない。子どもができないうちにわかれて実家へ帰ったほうがいい」と助言したそうです。しかし、身ごもったた禰は覚悟を決め、出産ぎりぎりまで夫とともに建設現場で働き、隧道に潜り建設工事を手伝いました。このとき長男 輝三郎(後に、中部電力会長などを歴任)が誕生します。 1911年に「西浦をのぞいて美濃焼は語ることができない」といわれる西浦焼の工場が閉鎖され、「これほど優れたものは二度と焼けない」と美濃焼を買い求めたのが、た禰の桃山陶収集の契機となります。 1930年、荒川豊蔵が可児市大萱の山中で志野の陶片を発見したことを機に、桃山陶発掘ブームが起こります。折しも不況の中、日銭が得られることから窯跡に多くの人が寄せ、掘り出された桃山陶が売られ持ち出されました。た禰は「大切な文化財が全部、よその土地に運び出されてしまい、町に残らぬのは残念」と心を痛め、「貴重な陶磁器の散逸を防ぎたい」という使命感から収集を行ったと思われます。64年に80歳でこの世を去った後、た禰が守った収集品が遺族から多治見市へ寄贈されました。