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歴史の記録

    • 2019年11月09日(土)
    • いいね新聞生活

名古屋市中区三の丸にある中日新聞社の1階通路には、社内見学に訪れた人たちに見てもらおうと、中日新聞および前身の名古屋新聞、新愛知新聞の朝刊と号外が15点ほど展示されています。創刊号のほかは、歴史上の大ニュースを伝えたものばかりです。どれも額に入っていますが、すっかり黄ばんでしまい、歳月を感じさせます。

中日新聞の創刊号は、1942(昭和17)年9月1日付です。前年の1941年12月に日本軍の真珠湾攻撃により太平洋戦争が勃発。時の政府は、国民生活を戦争遂行に仕向けるため、全部門において整理統合を指導しました。新聞も例外でなく、愛知県を中心とする地域では名古屋新聞と新愛知新聞が統合、中日新聞(当時は中部日本新聞)が誕生しました。1面のトップに主筆名で統合の意義、新聞社の使命を高らかにうたっています。

「太平洋戦争終戦」を伝える1945年8月15日付の1面。昭和天皇の戦争終結を宣言する詔書が掲載されています。「る降詔大の平和 し畏断聖」の横見出しを見ると、あれっと思われるかもしれません。当時の横見出しは、今と逆で右から左へと読むようになっていました。

興味深いことに、中部日本新聞の題字の下に、小さめに右から讀賣新聞、毎日新聞、朝日新聞の全国紙3紙の題字が並んで記されています。物資不足の中、その地域の主たる新聞に全国紙名を併せて載せて配布することで、終戦を津々浦々に伝える意味合いだったのでしょうか。

1969年7月21日付の朝刊1面は、人類史上初の快挙となるニュースが踊っています。「人類きょう月に立つ」。月面の白黒写真やアポロ11号のアームストロング船長ら3人の宇宙飛行士の顔写真が添えられています。当時小学1年生だった私も、子どもながらに興奮したことを覚えています。

「あすから1ドル308円」(1971年12月19日)、「ガンジー首相暗殺される」(1984年10月31日)、「新元号決まる 平成」(1989年1月7日)といった号外も見られます。「日本航空機墜落」(1985年8月13日)のときは学生でしたが、墜落当夜、東京の下宿先に近い叔母宅で食事をしていると急にテレビ画面が切り替わり、「ジャンボ機の機影がレーダーから消えました」と、アナウンサーが緊迫した面持ちで繰り返し報じていた光景が、まざまざとよみがえってきました。

通路には「日露戦争」「第一次世界大戦」「関東大震災」「二・二六事件」など歴史の転換点になった出来事を伝える名古屋新聞、新愛知新聞の号外も展示されています。パソコンやスマホはおろか、テレビもまだなかった時代、ほとんど唯一といっていい情報発信源だったのが新聞です。

旧字体や旧仮名遣いで読みづらい文字もありますが、立ち止まって紙面に目を凝らすと、歴史の息吹が伝わってきます。まさに新聞は歴史の記録であることを実感します。興味のある方はぜひ、一度本社見学にお出かけください。(有)