マイティラインとは

最盛期には大正町一帯が全面桑畑に—多治見の養蚕

    • 2018年09月18日(火)
    • 写真館

 大正期に多治見町にあった繭糸問屋(けんととんや)。多治見の養蚕は大正後期に最盛期を迎えましたが、昭和初期に起きた不況から、業績に陰りが見え始めました。

 江戸時代から続いた鎖国令が解かれて以来、海外との貿易が自由に行われるようになりましたが、生糸はその中でも最大の輸出品でした。明治政府が殖産興業を掲げ、生糸の増産を奨励したことで岐阜県の養蚕業もより活発になっていきました。多治見でも養蚕がおこなわれていましたが、自給的性格が強く一村をあげて養蚕に取り組む村に比べれば、蚕を飼う家は決して多い方ではなく多治見全体で最盛期の中でも460戸ほどでした。養蚕期間は約1ヶ月で、他の農作物に比べ作業期間が短かいため、養蚕は農家の格好の副業でした。

 1881年(明治14年)の「各村略誌」によれば、田中村(池田町屋村と中之郷村が合併した村)では、他の村を引き離してダントツの生産量であったそうです。その量は、繭740斤(440kg)、生糸50斤(30kg)であったそうです。この他では、長瀬村で繭10斤(6kg)、大原村で12斤(7.2kg)、根本村では、繭30斤(18kg)でほどの生産を誇りました。

 この当時の桑の木は家の周りや堤防、畔・山裾に植え付け施肥もしないほとんど野生の状態であり、まだ養蚕は、自家製造の状況であったそうです。養蚕業が、当地で盛んになったのは、明治20年以降とも30年代ともいわれるようで、畑に桑の木が植えられるようになっていくのは、その頃からであったようです。明治末年には、豊岡町(行政区)の大正町一帯の畑が全面桑畑になっていたといいます。(明治30年生まれの古老からの聞き取りより)

 1904年(明治37年)7月9日夜~11日の豪雨により、旧脇之島の西北字下畑(現岐阜県立多治見病院のある辺り一帯)・字弓ノ木(現平和町8丁目)の土岐川堤防90間余(約162m余)が決壊し、現昭和小学校以西にかけて一帯が、水深1.2~1.5メートルの冠水で、水浸しになってしまったそうです。この水害は、内水氾濫ではなく洪水であり、かなりの土砂が現脇之島排水機場辺り一帯まで流入しました。この事が土岐川沿い北西部が桑畑へと変貌した理由であったのでしょう。

 この地での本格的な養蚕業は、明治30年代の後半から40年代にかけて生糸相場もまだそれなりに安定していたようですが、昭和に入り戦争や金融恐慌等で生糸相場は急落、1931年(昭和6年)には、一村全て養蚕に携わった村の経済状況は、悲惨の極にまで達しました。

 この地の養蚕農家も同様に被害をうけ、1936年(昭和11年)には土岐川大蛇行改修の為、旧脇之島の桑畑は土岐川の川底となりこの地での養蚕業が終焉したといいます。養蚕農家は河川改修に当初反対していましたが改修は実行され、養蚕業に見切りをつけたとも言えます。他の村々も第2次世界大戦(昭和14年)が始まると食糧増産のために桑畑が食糧畑へ強制変更され、また生糸の海外販売先も無くなったことから蚕の飼育どころではなくなり、全国でも同様に見られた状況のようです。