マイティラインとは

さよなら笠鉄—地場産業・市民の足として愛された鉄道路線

    • 2018年09月18日(火)
    • 写真館

 陶磁器原料や燃料・製品輸送の必要から、市内より鉄道を望む声が高まり昭和3年に中央線多治見駅と笠原町を結ぶ、約4.6㎞に及ぶ笠原鉄道(株)笠原線が開通しました。

 新多治見・本多治見・市之倉口・下滝呂・滝呂・笠原の各駅が設置され、物資の輸送のみならず人々の足としても利用されました。

 新多治見駅(しんたじみえき)は、国鉄中央本線多治見駅のほど近くにあり、2面2線のホームを有していました。沿線の主産業である陶磁器製品を運搬するため国鉄と連帯運輸契約を結び、多治見駅との間に貨物用連絡線がありました。新多治見駅と多治見駅とは線路は繋がっていましたが、旅客はその間を徒歩で行き来していました。新多治見駅跡地は現在、有料駐車場となっています。

 市之倉口駅(いちのくらぐちえき)は、貨物(陶磁器、耐火煉瓦など)の取り扱いが多く駅施設は交換施設がありました。また、貨物用ホームも存在しました。隣接する東京窯業多治見工場への専用線があり、廃線まで使用されていました。1979年(昭和54年)、多治見市が笠原線の線路跡を自転車専用道路・歩行者専用道路として整備することを決定し、平和町 – 滝呂町の整備を行い1998年完成させます。市之倉口駅の跡地はこの整備により無くなり、東京窯業多治見工場付近にわずかにその痕跡があります。

 下滝呂駅(しもたきろえき)のあった滝呂地区は、開業当時は土岐郡笠原町(1923年町制の旧・笠原町)でした。1951年に旧・笠原町全域が多治見市に編入されたのち、1952年に旧・笠原町が笠原村として分立した際に多治見市に残った地区です。駅施設は1面1線のホームでした。1979年(昭和54年)、下滝呂駅のホームは、廃線後の整備の際に埋められ、現在ではその痕跡を見る事はできません。

 滝呂駅(たきろえき)は、は滝呂地区の中心地にありました。駅施設は開業当初は1面1線のホームでしたが、戦後に交換可能な駅になりました。滝呂駅の跡地は廃線後の整備により無くなってしましました。

 笠原駅(かさはらえき)は旅客用の2面2線のホームを有していました。陶磁器製品を運搬するための貨物駅でもあったため、貨物用の引込み線、留置線、側線なども存在しました。東濃鉄道笠原線の中心の駅であり、車両基地、運転基地、工場、貨物積込設備があり、広い構内を有していました。 戦中の企業統合で駄知鉄道と合併したのちは、東濃鉄道(株)と改称しました。貨物輸送に加え鉄道利用者は非常に多く、昭和20年には1日の利用客が4,100人であったという記録が残っています。昭和27年には経費の節減等から蒸気機関車からディーゼル機関車に替わり、同時に貨物と旅客輸送が分離運転することになりました。多治見市街地への買い物客や映画を見に行く人々などで満員になるほどのにぎわいを見せましたが、自家用車が普及するようになると、乗降客は減少の一途をたどりました。昭和46年6月に旅客輸送、昭和53年10月に貨物輸送が廃止され、笠原線は50年の歴史に幕を閉じました。

 廃線となった翌年の昭和54年、多治見市は線路跡を自転車専用道路・歩行者専用道路として整備することを決定し、平和町 – 滝呂町の整備を行い平成10年完成しました。平成18年、多治見市と笠原町が合併したことから、合併記念事業として滝呂町 – 笠原町の延長整備が行われています。この専用道路は陶彩の径と名付けられ、沿道には桜が植栽されたことから桜の名所となっています。