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多治見ぶらり散歩Part6 中央線開通と西浦焼赤レンガ

    • 2018年09月19日(水)
    • ぶらり散歩

過酷な製造工程を経て作られた赤レンガ

 西浦圓治(にしうら・えんじ)といえば、明治時代、美術的に誇り高い名品を日本を始め、世界に送り出したことは皆さんご存知でしょう。

 明治13年、3代目圓治が名工加藤五輔(かとう・ごすけ)と美濃焼の向上を願い、濃陶社を創立。6年に渡り香り高い染付細密画、優秀な画工を集め上絵の発展に尽くしています。

 明治21年、5代目圓治の時代となり、染付、上絵付けに加えて吹付の作品も始めます。ヨーロッパからアールヌーボーの新しい美術がアメリカや日本にも入ってくるとともに、日本の美術も世界に認められるようになります。

 5代目圓治がいち早く小さな町で新しい美意識を持ち、素晴らしいデザイナーや優秀な技術工を駆使し、世界に通用する作品をヨーロッパやアメリカに輸出し、高い評価を受けました。素晴らしい作品が多治見で生まれたことを改めて誇りに思います。明治30年代が最盛期だったといわれますが、半世紀にわたり、名品を生み出し、1911年(明治44年)に廃業しました。

 そんな5代目円治が残した焼き物の功績で、日常から忘れられながら現在もなお、市内に残存するものがあります。旧中央線のトンネルに使われた赤レンガです。

 国鉄中央線の名古屋~多治見間が開通したのは1900年(明治33年)。高蔵寺駅から多治見駅までに14のトンネルが掘られ難工事だったといわれます。1986年(明治29年)、5代目圓治は妻木坂(現・本町7丁目・浄念寺から坂上町への坂道)に窯を作り、トンネルに使う赤レンガの生産を始めました。当時赤レンガにはドイツ製のものを使用していたようですが、圓治はその技術をどのように導入したのでしょうか。多治見から土岐にかけて、木節粘土の埋蔵量は豊富であり、原料には事欠かなかったようです。現代とは製法が異なりすべてが手造りで、木枠に水分を少なく調合された粘土を入れ、木槌で打ち付け流し込みながらレンガを作りました。その製造作業は過酷を極め、「レンガ打ちは長生きできない」ともいわれました。

 西浦の赤レンガを使った中央線の旧14号トンネルは、今もしっかり残っています。1966年(昭和41年)、名古屋~瑞浪間の複線電化工事が終わり、それを期に14号トンネルは廃止されました。黒煙を吐きながら走っていた頃が懐かしく思い浮かびます。

 さてもう一か所、西浦の赤レンガが残っているところがあります。稲荷山の下を中央線が走るため、麓にあった池田新徳稲荷神社が山頂に移されました。その参道の頂上に近いところに赤レンガの階段があります。トンネル用の赤レンガの一部で造られたもので、100年の歴史がある文化財的な階段です。

 戦前、初午には多治見から人の切れることがないほど活気にあふれ、多くの参拝者がこの赤レンガの階段を上り下りしましたが、西浦焼のレンガと知っていた人は何人いたでしょうか。この階段も健在です。

 西浦焼は、故郷の歴史の中で将来に語り継ぐ文化の一つです。