大変だった「新聞少年」
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- 2022年05月21日(土)
- いいね新聞生活
中学生のとき、家庭の経済事情もあって現名古屋市緑区の自宅近くの新聞販売店で朝夕刊を配達した。その十数年後に発表された山田太郎さんの曲「新聞少年」の歌詞にあるように、夜明けは眠たくて起きるのがつらかった。徒歩で配達したが、人通りがほとんどない山道もあり特に冬場は暗がりゆえ怖かった。古戦場に近い場所では亡霊が出てきそうで、墓地付近はいつも震えながら走った。
私は新聞の集金も担当した。あるとき手渡した領収書控えよりも合計で千円足りないことがあった。どうも釣り銭は渡したものの、肝心の札をもらい損ねたようだった。千円といえば私の月給とほぼ同額で、勤め人の月給の十分の一ぐらいだった。おかげで一カ月私はただ働きとなりわが家に大きな痛手を与えた。
中学校卒業にあたり新聞社から功績を認められて感謝状をもらった。私は五人きょうだいの一番上とあって全日制高校への進学なんて考えられず、機械メーカーに就職して定時制高校や夜間の短大に通いながら航空機の設計業務に携わった。六十歳の定年後も関連会社で同じ仕事を十五年間続けた。理不尽さもあったが、新聞少年時代に働くことの意義や大変さを学んだ気がしている。
飼沼広規(岐阜県可児市)83歳
(令和4年4月22日中日新聞朝刊より)
※この記事は、ご本人と中日新聞社の許諾を得て転載しています。
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