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Part1 虎渓用水建設に尽力 佐藤 邦三郎

    • 2018年08月29日(水)
    • 偉人伝

町の発展に無報酬で力を注ぐ

 陶都中学校付近の丘陵地(住吉町)に、私たちの暮らしを見守るかのように佐藤邦三郎の銅像が建っています。邦三郎は当時、水不足に悩む人々の暮らしを守るため、虎渓用水路建設の発起に加わり尽力しました。用水路や排水路の整備、道路の改良、小学校の増築、墓地の集約など、町の発展に無報酬で力を注いだそうです。昭和3年3月に、これらの功績をたたえ銅像が建立されました。

 邦三郎には豪快伝説もあり、市内で醸造業を手伝いながら消防団を務めていた時、飼育していた馬で現場に駆け付け4斗だるを振る舞ったとの逸話や、隣町の豊岡村の村長を務めていた邦三郎が「多治見駅」と名付けたのは、30年後の大合併を見据えた大英断だったなどいくつかの逸話が残されています。

 虎渓用水路の歴史は古く、江戸時代、当時の長瀬村の人々は水不足に悩まされていました。田畑の水は雨水のため池を利用していたが、すぐに枯渇。土岐川から水を引くための用水路を作るも川の氾濫により幾度となく失敗を繰り返しました。そのような中、明治33年に中央線のトンネル開通により、その技術を応用して虎渓山に用水路トンネルを掘る工事が始まりました。昼夜を問わず掘り続け、200日後に用水路は完成。用水路は無事に開通し、地域一帯が潤ったそうです。

 その喜びと偉業をたたえ、永保寺境内に「虎渓用水記念碑」が建立されました。その後にも邦三郎らは用水路をコンクリートで改良。一般にセメント川と呼ばれ、生活用水や防災用水として活用されました。現在は用水にふたをして、さらに歩道へと変わりました。

 豊かな水が悲願だった当時の苦労を後世に伝えようと、2016年7月に駅北側に虎渓用水広場が完成しました。また、その歴史は、多治見ロータリークラブが作製した「虎渓用水の歴史」のDVDでも見られます。

取材協力 吉田峻之助さん