マイティラインとは

Part4 公共整備から美濃焼の海外進出まで町の礎を築いた 西浦 圓治

    • 2018年08月29日(水)
    • 偉人伝

初代から5代目圓治による、功績の数々

「西浦焼」といえば、優美な洋食器を連想される方が多いでしょう。ここではやきものだけに限らない、西浦家が残した数々の業績を振り返ります。 西浦家は代々多治見村の村政を担い、2代目、3代目圓治(えんじ)は美濃焼物産業の販路に大きく貢献しました。江戸時代は尾張藩蔵元制度の支配下にあったため、美濃で作られるやきものは、「瀬戸物」として扱われていました。荷代金支払いの不自由さなどもあり、幕府や尾張藩との折衝の末、美濃焼物取締所を通して「美濃焼物」として全国への販路を広めました。明治時代に入り、やきものの生産や販売制度が自由になると、3代圓治は明治6年のウィーン万博に製品を出品し、海外へも美濃焼を広めました。 4代目圓治は17年に私設消防組を組織し、19年には私費で多治見橋の架け替えを行うなど公共事業にも尽力しました。 そして5代目圓治は町長に就任し、銀行業、道路整備、組合長、多治見町立工業補修学校を設立し、窯業教育にも尽力しました。その後、明治30年代に作られるようになった釉下彩(ゆうかさい)による吹絵装飾の製品を創出。設立された多治見貿易合資会社の代表の一人となり、アメリカ・ボストンにも支店を開きアメリカへの直接販売も可能にし、海外の万国博覧会で受賞するなど、西浦焼が美術品として高い評価を受けました。 残念ながら明治末期に西浦焼は廃絶しましたが、西浦家の功績は産業や文化として色濃くこの町に受け継がれ、これからも続いていくことでしょう。