マイティラインとは

多治見橋—人々の暮らしの架け橋

    • 2018年09月18日(火)
    • 写真館
架橋中の多治見橋(昭和11年)

多治見市の南北をつなぐ、交通の要所の歴史。

 多治見市を南北に分断する土岐川。その南北の架け橋には国長橋、陶都大橋、多治見橋、昭和橋、記念橋、虎渓大橋があります。

 明治・大正年間を通じて多治見町と豊岡町を結んだ多治見橋が、本格的な木橋として開通したのは1880年(明治13年)。明治天皇の巡幸に伴い1,000名の大行列に耐えられるよう、土橋から木橋に架橋されました。しかし豪雨により、翌年には橋を流失してしまいました。 架橋しては増水によって流失を繰り返すたびに、荷馬車はいったん荷を下ろして渡河し、人肩で運んだ荷を再び対岸で積みなおしていました。そのため渡橋式を行うたびに関係者はまた流失するのではないかと複雑な気持ちで式をむかえた人も。しかし、1910年(明治43年)の渡橋式では橋の中央に祭壇を設け、両岸に万国旗を飾り、花火があがり、相撲、棒の手、撃剣が催されるなどお祭り騒ぎとなり人々の待ち望んでいたことがうかがいしることができます。

 大正から昭和に時代が変わり自動車利用が増えると、手すりが完全でないため自動車を避けて橋から転落する人が続出という事故も起こりました。橋が老朽化し危険ということもあり、1937年(昭和12年)に当市域で初の歩道付鉄筋コンクリート構造の橋の誕生となり、補強工事を繰り返し現在の姿となりました。

取材協力 多治見市図書館 郷土資料室